日本って平等社会なのですか?

日本国内にいるみなさんは、
平等を感じていますか?

白人、黒人、黄色人種などの
皮膚の色での差別を日々感じていますか?

中卒、高卒、大卒、院卒などの
学歴の違いでの差別を日々感じていますか?

生まれ育った地域での差別はありましたか?

身体的な違いから差別を受けましたか?

男女の違いから差別を感じた事はありますか?

それらの差別は人生を狂わすほどに深刻ですか?




僕は不平等を感じて生きています。
↑上記に書いた事とは別の事です。
大変に生きづらいです。
死にたくなる事も多々あります。
同じ理由から、身近に死んだ人もいます。
だけど、僕の感じる不平等を世間は認知してくれません。
「不平等ではなく、お前が甘えているだけだ」
と言われて終わりです。

就職、恋愛、友人、貧富・・・など、
人生において最も重要な項目において大きな格差が生じています。
その最大要因であるコミュニケーション能力の差別について、
表だって語られる事がありません。
だから、
日本って平等社会なのだろうか?
と僕は疑問を持ってしまうのです。
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こんばんは。

 ナギヒロさん、こんばんは。
お久しぶりです。byhです。

 私も不平等は感じますね。

 日本から出たことはないので、外国との比較はできないですが、日々感じます。

 生命の遺伝子がそうさせているのか、よく分かりませんが、優劣をつけて、『自分より劣っている』と思われる人を排除する傾向のある人が多いように感じます。

 私は、金子みすゞさんのように『みんなちがって、みんないい』でいいと思うのですが...。

 私は自助グループとかには参加したことがないのですが、例えば、コミュ障と思っている人達が集まったとしても、そのグループの中でも格差は生じるように思います。

 確かに、生きづらい世の中ですね。

 でも、毎回同じことを言ってしまいますが、ナギヒロさんはひとりぼっちじゃないですよ。

 本気でナギヒロさんのタクシー、乗りに行きたいです。
実際にするとストーカーみたいになるのでしませんが...。

 私は、仲間だと思っています。

 

No title

人は3人集まるとグループが出来るよね。
だから人と合う時は1対1がいいです。
グループ行動は嫌いです。

お久しぶりです。byhさん。
元気にしてましたか?


 不平等だと言うと、
被害妄想丸出しでカッコ悪いかもしれませんが、
本当にそう思います。
 僕も海外で生活した事は無いので、外国の事は言えませんが。

 コミュニケーション能力の低い人を馬鹿にしても良い。
それも何の罪悪感もなしに。というのを感じます。

 byhさんの言われるように、
コミュ障と思われるグループに参加したとしても、
その中でコミュニケーション能力の高い人がリーダーとなり、
典型的なコミュ障が隅に追いやられるという
空しい流れもありますね。

 「ひとりぼっちじゃない」
とbyhさんに言ってもらえる事は本当にうれしいです。

 byhさんにタクシーに乗ってもらえたら
本当に嬉しいですが、
距離もあるしお金もかかる事なので、
難しい所ですね。

 仲間だと言って貰える事に感謝します。


こんにちわ、むぼうびさん。

 人は集まるとグループが出来ますね。
それを望む人もいますが、
僕とかにはキツイ流れです。
1対1が良いですね。
 グループ行動を好む人がいるから
困りますね。


No title

そもそも平等ってのが幻想なのだと思いますね。
人はそもそも平等ではない。
美人はモテるし、ブスはモテない、当たり前だと思います。
コミュ障に人は集まらないし、コミュ力ある人に人が集まるのも当然だと思います。
ただブスだからって、コミュ障だからって、全否定するのはおかしいと思います。
その分野で能力がなくても、他の分野で能力があるかもしれない、
その分野だけで判断して、他の分野を見なくなるのはおかしい、と私は思います。
完全な平等なんて実現できないし、する必要もないと思います。
ただ格差は少ない方がいいと思います。

 こんにちわ、pinさん。

 平等ってのが幻想というのは、
ある意味では確かにそうですね。
 ただ、僕の中では「平等」という言葉は
非常に重要なキーワードだったりします。

王様が平等を望むのか?
奴隷が平等を望むのか?
王であれば格差をより強固にしたいし、
奴隷であればより平等を望みます。
上位者と下位者ではそのへんの
考えは全く異なります。
 僕としては、
下位者は常に平等を望むべきだと考えています。
でなければ、上位者が喜んでしまうので。

 コミュニケーション能力がベースの社会であれば、
コミュ障の人の他分野における才能も消されます。

日本人全員が年収400万円、
同じ服を着て同じ車に乗りましょう。
ってのは不可能だと思いますが、
平等を望む気持ちは持ちたいと思っています。

No title

頑張った人がその分得られなければ、皆努力しなくなるので、
社会が崩壊してしまうと思います。頑張った人も、毎日寝ている人も、
同じ年収400万となったら、流石に頑張る人はいなくなると思います。
だから格差は少ない方が良いにせよ、ある程度差はつけるべきだと
思います。でも、そもそもコミュ力というのは、どっちが上だどっちが
下だというのはないのだと思いますね。頭の回転が早い人も、回転が
遅い人も、それぞれの世界があって、それらは対等であり、どちらが
上というのはないのだと思いますね。人間と、ゴリラと、コウモリ、
犬などそれぞれコミュニケーション手段を持っていて、それらに上も下も
ないのだと思います。犬は人間より嗅覚が優れていますが、人間は世界を
フルカラーで見たり、言葉を使うことができます。そこは違う世界と
いうだけで、上も下もないのだと思いますね。その点で対等だと思います。
それはコミュ力だけでなく他の分野でも同様で、そこに上も下もないのだと
思います。その点で私は結果としてナギヒロさんの平等思想に近くなって
いると思います。ただそうは言っても、頑張った人がその分報酬を
貰わないと誰も頑張らなくなるので、その点で、ある程度は差はつける
べきだというのは私の考えです。

ただ先に書いた、美人はモテるし、ブスはモテない、コミュ障に人は
集まらないし、コミュ力ある人に人が集まる、というのは水が低きに
流れるのと同じように、物理法則みたいなものなので、やはりそれが
発生するのは仕方がないのだと思います。その場合、低きに流れた水を
汲み上げて、同じ高さにするという平等と、水は汲み上げず、低いものは
低いまま、高いものは高いまま、だけど、その低いという世界と高いという
世界は、それぞれ別の世界であり、どちらが上というのはない、それらは
対等である、と捉えるという平等があると思います。私の考えは後者
なのだと思いますね。それぞれ対等だということを理解すれば、
それぞれを尊重して、一方を押しつぶすということも少なくなるのだと
思います。その結果格差も少なくなればいいように思います。
前者の場合だと、美人の方が上、コミュ力のある方が上、という上位者の
価値観に支配されてしまっているので、まず王様から、価値観という点での
平等を勝ち取らなければいけないのだと思います。これが私の考えですねぇ。

コメントありがとうございます、pinさん。

 頑張った人もサボった人も同じ報酬ではやる気も無くなるし、
そんな社会に成長は無いですね。

僕の言う平等とは、 
「頑張った人もサボった人も年収400万円で統一しましょう」
という事では無いです。
むしろ、死にもの狂いで頑張った人と怠慢な生活をした人の間に
大きな差が生じても良いと思っています。

 僕が問題視しているのは、
同じように努力したとしても、
コミュニケーション能力が低い人は底辺に行き着く事などです。
「コミュニケーション能力の低い人にも報われる社会を」
という意味で平等と書いています。

 人間、ゴリラ、コウモリ、犬などに
どっちが上だ下だという事は無いという事ですが、
現実的には人間が圧倒的に上だと思います。
pinさんの言われるように犬は嗅覚が優れていて・・・
などあるのですが、支配しているのは人間です。

 足の不自由な人には車椅子などありますが、
コミュニケーションの問題を抱えた人には同類の物がありません。
 精神医療の分野は遅れていると言われながらも、
全然進まない事にもどかしさを感じています。

 

No title

そうですか…
私は、足の不自由な人も健常者もどちらが上下というのはなく
対等であると考えているので、補助は要らないという考え、
それに対してナギヒロさんは足の不自由な人が下であることを
認めた上で、補助が必要だという意見ということですね。
意見の違いが明確になって良かったです。

これは私の生き方にも関係していて、私の考え方であると、
コミュ障もコミュ力のある人も対等であるから、コミュ障である私も、
コミュ力のある人を前にしても堂々として要られるし、
遠慮なくコミュ障っぷりを発揮して、それで何か文句ある?
という感じです。
開き直るというのとは少し違いますね。開き直るというのは、
自分を下だと認めた上でのことだけど、そもそも上下という概念が
ないから、堂々としていられるのだと思います。

しかし自分が下で補助が必要という考えでは、その補助が得られる
までの間は(現に今は得られていませんが)堂々とすることができない
ということになってしまいます。それだといつまでも
コミュ障が生きやすい社会にならないのだと思います。
私もナギヒロさんもコミュ障の人が生きやすい社会を目指すという
ことでは同じなのだと思いますし、もっとコミュ障の人に自信を持って
欲しいように思います。補助や他の人の助けを待っていては、
いつまでも変わらないのだと思います。なにしろ足の不自由な人と
違って、コミュ力なんてものは目に見えないし掴み所がないので、
中々補助とか他の人からの助けの手を差し伸べるというのも、
非常に難しいものなのだと思います。
コミュ力のある人も、コミュ障の人を対等の存在と見ることで、
相手を下に見て、コミュ力ないのが悪い、なんて態度も取らなくなる
のだと思います。
相手を下に見て、それを手助けしてあげよう、という意識を持って貰う
というやり方もあるのだとは思いますが、それだと私はコミュ障の人が
堂々とした態度を取れるとは思えないのです。
それに相手任せになってしまうし、現在世の中でそういう意識を持って
いる人は少ないのだし、現時点で、コミュ障の人が生きやすくなる
考え方ではないように思います。

人間と犬はコミュニケーション方法が違って、人間は言葉を喋れますけど、
犬は喋れません。でも補助が必要ということは、犬が言葉を喋れるような
装置を何か開発するということであり、それに対し私の考えは、
人間と犬は違うのだから、別に犬は犬で卑下することなく堂々として
いればいい、という考えです。そんな装置ができることなんてまずない
のだと思います。

コメントありがとうございます、pinさん。

 「私は、足の不自由な人も健常者もどちらが上下というのはなく
対等であると考えているので、補助は要らないという考え」
の部分ですが、これは車椅子などが不要という意味でしょうか?

「ナギヒロさんは足の不自由な人が下であることを
認めた上で、補助が必要だという意見ということですね。 」
これは流石に違いますね。
この表現自体が僕の考えとは違うので。
足の不自由な人を下とみる考えは全くないです。


pinさんの場合はコミュ障であっても堂々としていられる
ようですが、実際にコミュ障の人は堂々と生きられずに
悩んでいる人が多いように思います。
 堂々と生きているならば、悩みも無いように思うのですが・・・

 コミュ障の人なんかは良く、
「もっと自信を持ちなさい」
と言われると思いますが、それが出来ない現状があります。


No title

コミュ障といっても色々あるので、指しているものが違うかもしれませんが、
私が堂々としてられるようになったのは、そのような考えを確立してから
ですね。そのため、100%信じ切ることはできなくても、その考えがあると
いうことを知っているだけで、コミュ障の人がもう少し堂々とすることが
できるようになるのではないかと思います。やっぱり人は自信を持って
生きる方が良いと思うし、この考えを広めたいと思っています。

>これは車椅子などが不要という意味でしょうか?
そうです。ただここは私とナギヒロさんの考えの違いを明確にするために
出したもので、コミュ障にとっての車椅子というのものは、私にはどうも
イメージできなかったし、それが実現が難しいのであれば、堂々として
行けばいいのだと思っています。

 こんにちわ、pinさん。

 コミュ障に色々あるのは確かにそうですね。

 堂々としているコミュ障というのはどんな感じでしょうか?
職場なんかではpinさんはどのような存在であると
自覚されていますか?


車椅子の話においては、
足の不自由な方には必須だと思っています。
杖や手押し車もそうですが、
僕は普段そういった方と接する機会が多いです。
しかし、そうした補助がなければ、
行動範囲が激減してしまうと感じます。
 そうした理由から、
「上も下もないから補助はいらない」
というのは綺麗事に感じてしまうのです。

 「強がる必要なんて無い。
足腰が弱ければ補助器具を使用するのが当然だし、
困っていれば助けを呼べば良い」
というのが僕の意見です。
これは、
車椅子の方などについては
皆から同意を得られると思います。

でも、
コミュ障についてはどうでしょうか?
「強がっていませんか?」
「補助器具はありますか?」
「困っている時に助けは呼べますか?」
と思ってしまうのです。

コミュ障の人に自信を持ってもらう
ってのは強がりにならないか?
気になります。

No title

車椅子の話はあくまで例えで、本題はコミュ障ですよね。
私の論法はこうです。
車椅子の人でさえ、2つの見方ができる。
1つはナギヒロさんの見方、もう1つは私の見方。
上でこのように書いていますね。

>私は、足の不自由な人も健常者もどちらが上下というのはなく
>対等であると考えているので、補助は要らないという考え、
>それに対してナギヒロさんは足の不自由な人が下であることを
>認めた上で、補助が必要だという意見ということですね。
>意見の違いが明確になって良かったです。

上下があるという考えでは、下側として、補助が必要です。
しかしそもそも上下という概念がなければ、それで満たされている
のだから、補助など必要ないのだと思います。

確かに補助があれば便利になるかもしれませんが、それはあくまで
プラスアルファですね。あるなら使えばいいと思います。
しかしないからといって、それは決してマイナスな訳ではないのです。
それがその人にとって当たり前なのです。それはそもそもそれが
マイナスという概念がないから当たり前です。

前提とする考えによって、2通りの見方が出来ると思います。

しかしコミュ障の場合は車椅子の場合と違って、その2つの見方の内、
1つはあまり有効でないのではないかと思います。
それは上でこのように書いているところですね。

>なにしろ足の不自由な人と
>違って、コミュ力なんてものは目に見えないし掴み所がないので、
>中々補助とか他の人からの助けの手を差し伸べるというのも、
>非常に難しいものなのだと思います。

コミュ障の人にとっての車椅子というものをイメージすることは
とても難しいと思います。そのため2つの見方の内、私の見方のみが
有効になるのではないかという論法です。


普通の人とコミュ障の人のコミュニケーションについて、私がイメージ
しているのは、例えば、人間と犬のコミュニケーションです。

人間と犬は、それぞれコミュニケーションの仕方が違います。
人間同士ならよく通じ合うし、犬同士でも良く通じ合うと思います。
しかし人間と犬はコミュニケーションのタイプが異なるため、
コミュニケーションをする時は、互い歩み寄らなければいけないと思います。
自分のコミュニケーションのタイプが絶対に正しい、なんて態度では、
円滑なコミュニケーションを取ることはできなくなると思います。

しかし実際は、普通の人はコミュ障の人に、歩み寄ろうという姿勢は少なく、
「コミュ力がないから駄目なんだよ」と相手を非難して片付けてしまいます。
私はそこに問題を感じたので、それはコミュニケーションタイプが異なる
だけで、そのことを認識し、歩み寄ることが大切であると、考えるように
なりました。

車椅子の人が、歩けないから車椅子を使うとか、健常者が普通に歩くとか
いうのは、個人で行うことですが、コミュニケーションというのは、
個人で行うことでなく、相手があって行うことです。その人が1人で
いた時は何も起きませんが、その人がコミュニケーションを取った時に、
発生する問題です。そこで助けとなるものは、車椅子のような器具ではなく、
相手の歩み寄りとなります。器具で解決するなら、その器具を開発すれば
いいのですが、そのような器具はなく、必要なのは相手の気遣いです。
足の不自由な人に対しては、もし車椅子がなかったら、その都度体を支えて
あげたり、おんぶしてあげたりということですが、そういうことをして貰う
としても、それは無料ということはなく、車椅子だってお金を払って買うの
だし、その分労力を掛けるのだから、お金なり何なり払わないといけないと
思います。四六時中そんなことをして貰うなんて、大変なことです。
しかしコミュニケーションの場合は、そのような一方的な関係ではなく、
支え合うのはお互いにです。何故なら普通の人の気持ちはコミュ障の人には
分からないし、またコミュ障の人の気持ちも普通の人には分からない
からです。歩み寄るのはお互いにであり、お互い相手とうまくいくやり方、
共通項などを探りながら、何となく見つかった良い方法を、お互い続けて
うまくやっていこうとしていくのだと思います。人間と犬のような他種族の
コミュニケーションも、お互いがお互いの本領を発揮できないけども、
通じる所をうまく見つけて、コミュニケーションを取っていくのだと
思います。そこではどちらがが上という考えもなく、どちらかが一方的に
補助しているということもありません。もし一方的に補助されているのなら
お金なり何なりを払わなければいけません。その考え方だとコミュ障側が
不利になるだけです。しかし対等であれば卑下することもなく堂々として
いられます。私の考えは、コミュニケーションというのはお互い様という
考えです。

まぁ重度なコミュ障になれば、精神障害者として国から補助金が出るかも
しれませんが、それも補助金を貰った上では、結局上で述べた考え方と
同じ考え方で捉えれば良いのだと私は考えます。

こんにちわ、pinさん。
コメントありがとうございます。

>私は、足の不自由な人も健常者もどちらが上下というのはなく
>対等であると考えているので、補助は要らないという考え、
>それに対してナギヒロさんは足の不自由な人が下であることを
>認めた上で、補助が必要だという意見ということですね。
>意見の違いが明確になって良かったです。


もう一度取り上げて頂いたこの文についてですが、
「足の不自由な人が下である」
という部分は大変に失礼な表現だと思うのですが、
pinさんはどう考えていますか?


 pinさんの言われる事には余裕を感じます。
その余裕が本当に当事者の目線に立っているのかが
気になるのです。例えば↓の表現とか、

「確かに補助があれば便利になるかもしれませんが、それはあくまで
プラスアルファですね。あるなら使えばいいと思います。
しかしないからといって、それは決してマイナスな訳ではないのです。 」

 足の不自由な人にとって車椅子とは、
「あれば便利」、「プラスアルファ」、「あるなら使えば」
という程度の物ではなく、
必須の器具であり、自分の身体の一部だと思うのです。
 実際に車椅子に乗る人と対面して、
↑のような発言を出来ますか?
現実に足を失くしたAさんと直面して、
そのような発言ができるのか?という事です。

それが出来るなら現実的な発言だし、
無理なら非現実的な発言と言う事だと思います。


 身体的な問題と精神的な問題では
全く違う現状があります。
補助金の問題にしても、
身体だと「有」、精神だと「無」
という事が多々あります。
それだけ周りからの理解に差があると言う事ですね。

 

 pinさんが言われるように、
「コミュニケーションはお互い様」
というのはその通りだと思います。

「一方的な関係ではなく、支え合うのはお互いにです。
何故なら普通の人の気持ちはコミュ障の人には分からないし、
またコミュ障の人の気持ちも普通の人には分からないからです。」
というのもその通りだと思います。

「対等であれば卑下することもなく堂々としていられます。」
というのもその通りだと思います。

 ただ、僕が思ったのは、
pinさんの意見には余裕があるという事です。
理想的過ぎるとも思います。
コミュニケーション能力の高い人が、
「お互い様」だと考えますか?
「支えあうのはお互いに」だと考えますか?
それも無いのに、
コミュ障でも「堂々としていられます」
という事に違和感を覚えるのです。



「コミュ障の人が堂々と過ごせる社会ではない」
と僕は現状を考えています。
コミュ障の人にとっては大変に辛い状況だと思います。
だからこそ、
『日本って平等社会なのですか?』
と僕は問いかけたのです。


No title

>「足の不自由な人が下である」
>という部分は大変に失礼な表現だと思うのですが、
>pinさんはどう考えていますか?

私の書いていることを読めばわかると思いますが、ここでいう上下
というのは、平等に対するものであって、平等でない=上下がある
という意味以上の意味はありません。

ナギヒロさんにとって平等というのは、非常に重要なキーワード
なんですよね。その平等を目指しているということは、そこに上下
があり、それを解消しようということですよね。
車椅子の人に対する様々な補助というのはまさにその解消ですね。
つまり解消しなければいけない=「足の不自由な人が下である」
という認識、ということの確認であり、意見の違いを明確にする
目的で記載したこの文が失礼に当たるとは思いません。

それに車椅子は身体の一部といいますけど、車椅子というものが日本で
広く普及したのは戦後ですよね。じゃあ縄文時代から大正時代までの
障害者の身体の一部がなかったのですか?その人達だって自分達の
人生を必死に生きて、価値ある人生があったんです。今の私達だって
未来の人から見たら、不幸な人達のように思われるかもしれないですよ。
結局それは誰と比較しているかという話です。比較対象を固定化せず、
様々な視点で考えるべきではないですか?

>実際に車椅子に乗る人と対面して、
>↑のような発言を出来ますか?

これについてはナギヒロさんは、江戸時代の障害者の人に、
車椅子がないなんて、なんて不幸な人なんだ、なんて言えますか?
私はその人が幸せそうにしていたら、それをありのまま肯定します。
それに現代の人は、現に便利な車椅子を持っているんですよね。
私がもしそれがないなら~と仮定の話をしてもしなくても。
それより持ってない人に対し目を向けるべきではと思います。
まぁ車椅子の人の話は本題ではないので、今はコミュ障の人について
考えるべきですが。今のコミュ障の人というのは、その持っていない人
ですね。

>コミュニケーション能力の高い人が、
>「お互い様」だと考えますか?
>「支えあうのはお互いに」だと考えますか?

私は考えていません。それは以下に書いてある通りです。

>しかし実際は、普通の人はコミュ障の人に、歩み寄ろうという姿勢は少なく、
>「コミュ力がないから駄目なんだよ」と相手を非難して片付けてしまいます。
>私はそこに問題を感じたので、それはコミュニケーションタイプが異なる
>だけで、そのことを認識し、歩み寄ることが大切であると、考えるように
>なりました。

ここに書いてあることが私の意見の全てです。認識を変化させるべきだと
いうことです。そのためにはコミュニケーションタイプが異なるということを
示すということが大切です。それは口で説明してもいいし、またはそれは
対等であるという堂々とした態度を取ることで、(勿論相手にもよりますが)
伝えることもできます。相手に「お互い様」と考えて貰ったから堂々とする
のではなく、堂々とすることで、そう考えて貰うことができます。
また自分の堂々とした態度は、相手によるのではなく、自分の中にある
根拠によります。相手に影響されるものではありません。

ただコミュニケーションタイプが異なるだけと言っても、少数派である
ことは変わりはありません。少数派の肩身の狭さというのはあります。
もしそれが多数派なら、それは大多数の人とコミュニケーションが通じる
ということなので、それはもうコミュ力があるということとなります。
私の考える平等社会でないというのは、この少数派の肩身の狭さという
ところに当たります。

>私が堂々としてられるようになったのは、そのような考えを確立してから
>ですね。そのため、100%信じ切ることはできなくても、その考えがあると
>いうことを知っているだけで、コミュ障の人がもう少し堂々とすることが
>できるようになるのではないかと思います。

ナギヒロさんにとっては理想論かもしれませんが、私にとってはこのように
書いてる通り、現実に自信を持つことができるようになったのだから、
現実です。他人事ではなく自分の事です。
しかし仮に理想論だとしても、理想と現実が必要なのであり、今ナギヒロ
さんが現実100%で考えているなら、半分50%は理想を取り入れても良いのでは
ないでしょうか。私が上で書いたのはそういうことです。


こんにちわ、pinさん。

「私は、足の不自由な人も健常者もどちらが上下というのはなく
対等であると考えているので、補助は要らないという考え、
それに対してナギヒロさんは足の不自由な人が下であることを
認めた上で、補助が必要だという意見ということですね。
意見の違いが明確になって良かったです。」

 についてですが、これはあくまでもpinさんの考えであり、
僕が足の不自由な人を下であると言う考えは存在しないので
ご了承ください。
 この文章の意図は、
「正しい考えのpinさん。
 間違った考えのナギヒロ。
 だから、
 間違った考えのナギヒロとの違いが明確になって良かったです」
だとは思いますが。


>「足の不自由な人が下である」

という表現について、
pinさんの頭の中では間違ってないようですが、
一般的には失礼にあたる表現だと思います。
pinさん独自の論理的思考の事ではなく、
この文そのものがマズイという事です。


車椅子についての話ですが、
縄文時代や大正時代の人と比較すると話がずれませんか?

僕は現在の現実の話をしているので、
単純に、 
足の不自由な人に対して、
「車椅子ってあれば便利な程度」、
「車椅子ってプラスアルファ」、
「車椅子ってあるなら使えば」
として話を出来るのか?という事です。
 時代は現在です。
国についても、日本のつもりで話しています。
南極とかシリアとかのつもりはないです。


pinさんは、
堂々とする考えを身に着けた事で生活は変わりましたか?
周りの人の態度は変わりましたか?
 

No title

>この文章の意図は、
>「正しい考えのpinさん。
>間違った考えのナギヒロ。
>だから、
>間違った考えのナギヒロとの違いが明確になって良かったです」
>だとは思いますが。

それは違います。私の文章をちゃんと読んでくれていますか?

>私の論法はこうです。
>車椅子の人でさえ、2つの見方ができる。
>1つはナギヒロさんの見方、もう1つは私の見方。

上でこのように書いてます。前提の異なる2つの見方であり、
どちらが正しいなどとは言っておりません。前提により
変わるというだけです。そして意見の違いを明確にしないと
議論は進まないので、それが明確になり良かったということです。

私は私と異なる意見を聞くことができて嬉しいのですよ。
それは自分の考えの幅が広がるからです。自分の考えを整理することが
できるし、同じようにコミュ障の住みやすい社会を目指すといっても、
その見方が異なる人がいるということを知ることができて嬉しいのです。

また意見の違いが明確になれば、お互いが分かり合えるという喜びも
あります。お互いの前提が分からないまま話し合っても、噛み合わない
だけですしね。そういう状態はお互い何だかよく分からない状態で、
そこから脱出し、違いを明確にできたということは、喜ばしいことです。

>についてですが、これはあくまでもpinさんの考えであり、
>僕が足の不自由な人を下であると言う考えは存在しないので
>ご了承ください。

ここでは、私の考えと、ナギヒロさんの考えが違うと述べられていますが、
そうではなく「下」という言葉の概念が違うだけではないのでしょうか。
違いはそこだけであり、私が考えるナギヒロさんの考えと、
ナギヒロさん自身が考えるナギヒロさんの考えは一致しているのでは
ないでしょうか。言葉の定義、概念の問題であって、本筋は一致している
のではないでしょうか。はっきり言って本筋が一致していれば、
それぞれの言葉の使い方、概念がずれていても(そもそも全ての人が
全ての言葉に同じ概念を持っているわけはないので)、そこは気に
しなくてもいいのではないでしょうか。それはそれぞれ個人のものであり、
相手に自分の概念、定義を強要できるものではないですし。

まぁ何にせよそこは本筋ではないので、そこに拘っていても話は
進まないように思います。私は自分の概念、定義はしっかり表せていると
思うので、失礼に当たらないと思いますね。考えるためにシンプルに
しようとしただけで、それにより考えの違いを明確にし、議論の礎に
しようとしただけで、何ら問題はありません。

>車椅子についての話ですが、
>縄文時代や大正時代の人と比較すると話がずれませんか?

誰と比較するかで変わるという話をしています。その比較対象を固定
していませんか?って話です。何がデフォルトか、何がプラスアルファか
というのも、それにより変わりませんか?って話です。
絶対的にこれがデフォルト、絶対的にこれがプラスアルファだ
なんてものはないんです。それは普遍的な話であり、現代や日本であること
に限定する必要はありません。仮に日本だとしても、1時間後、2時間後、
日本はどうなっているかは分からないですよ。大噴火が起こったり、
大地震が起こったり、核爆弾が全都市に落とされたり、どうなるか
分かりません。ただそのように比較対象を限定することで、何か絶対的な
ものを持っているような錯覚に陥っているのではないですか?
ということです。それは1つの考え方であり、理屈として成り立ちます。
また現実的な考え方もあるでしょう。しかし現実的な考え方を100%それしか
持たないというのは、窮屈ではないでしょうかね。理屈として成り立つ
もう1つの考え方を半分でも持てば、自由になるのではないかと思いますね。
比較対象を固定することで、自分を卑下したり、その他苦しんだり
窮屈な目にあうのなら、そんなものに捉われずそこから自由になればいい
と思いますね。

また私がナギヒロさんに聞きたいのは、コミュ障の人にとっての
車椅子に当たるものって何なんですか?ということです。
私にはイメージが付かないからです。コミュニケーションというのは
相手あってするもので、その都度相手に援助してもらうというのは、
車椅子に当たらないと思うからです。つまり車椅子の例えはマッチして
いないと思うのです。そのため上の論法でも書きましたが、
車椅子の人でも2つの考え方がある、でもコミュ障の人の場合は
1つしかないのではないかということです。それとも四六時中相手に
援助されるということをしろと言っているのでしょうか。流石に
それは無理だし、国でなく個人にそんなことする義理はありません。
そのためコミュ障の人は堂々としていれば良いのではないかと思います。
そういうわけでコミュ障の人にとっての車椅子に当たるものがあるのか
どうか、あるのなら何なのか、教えて貰えますか?
もしあるのなら、私の考えの元となる前提が変わります。

>pinさんは、
>堂々とする考えを身に着けた事で生活は変わりましたか?
>周りの人の態度は変わりましたか?

自分を卑下することで堂々とすることができ、そうでなかった
時期に比べ、心が自由になり、楽に暮らせるようになりました。
周りの人の態度は見ていないのでよく分かりません。

コメントありがとうございます。pinさん。

 pinさんのコメントの中に、
「私の文章をちゃんと読んでくれていますか? 」
のような内容がたびたび見られますが、
全てを完全理解する事は困難だと思います。
一般的に考えての事を書いています。

pinさんが書いた
「ナギヒロさんは足の不自由な人が下であることを
認めた上で」
という意味の文を僕は書いていません。
「足の不自由な人が下である」
などと僕は認めてないのです。
ナギヒロの名でこの文が出来ているから、
僕としては認める訳には行かないです。
これはpinさんの文を良く読めば分かるとかではなく、
この文自体がマズイのだと言いたいのです。

不自然に表れた、
「足の不自由な人が下である」という表現から、
僕の意見を否定する意図を感じたという訳です。
なので、
pinさんは正しくてナギヒロは間違ってると言いたいの?
という解釈になったのです。

僕のブログにおいては、反論などは歓迎します。
それはpinさんの書かれた通りです。

 車椅子の話で、
縄文時代だったり大正時代だったり、
大噴火が起こったり、核爆弾が全都市に落とされたり・・・
とかの話を持ち出したら、
話が完全にブレてしまうと思います。
僕が聞きたいのは、
「車椅子が無くても良いですか?」
という質問を周りの車椅子利用者に聞けるのか?
と言う事です。


『また私がナギヒロさんに聞きたいのは、コミュ障の人にとっての
車椅子に当たるものって何なんですか?ということです。』
このpinさんの質問に対しては上記に僕が書いた通りですが、


「足の不自由な人には車椅子などありますが、
コミュニケーションの問題を抱えた人には同類の物がありません。」
 というのが僕の思う所です。


「自分を卑下することで堂々とすることができ、そうでなかった
時期に比べ、心が自由になり、楽に暮らせるようになりました。
周りの人の態度は見ていないのでよく分かりません。」
の部分については、
心が自由になり、楽に暮らせるようになったのは
良かったと思います。


 長くなり過ぎると、
何が言いたいのか意味不明になりがちですが、
僕が今回の「日本って平等社会なのですか?」
で言いたいのは、
精神的な問題を抱えた人には不利な社会情勢がある
という事です。

No title

ナギヒロさんは平等でない、と書いていますが、例えばAとBがいるとして、
その2人が平等でない、そのためBに援助して平等にしなければいけない、
そのAに対してBを何と呼べばいいのですか?私はそこをシンプルに「下」
と表現しました。しかしナギヒロさんはその「下」と言う表現がマズイ
と感じるとのことなので、代わりに○○と表現すればいいと出して貰え
ませんか?でも私は○○と表現してもその中に「下」という意味が含まれる
と思うんです。なのでシンプルで抽象的な「下」という言葉の方が、
適確で話が分かりやすいのではないかと思いますが。もし他に適した
○○に当たるものがあるのなら、私は「下」というのをその言葉に置き換えます。
もしないのなら、適した言葉がないので、この言葉を使うことは仕方が
ないのではないですか?他に表す言葉がないのだから。
よければ「下」に代わる○○という言葉を出して貰えませんか?

この「下」という言葉、「上下」という言葉を出さない限り、私の考えは
この「上下」という概念自体がない、ということであるので、そのことを
説明できないと思います。それに対しその概念があるのがナギヒロさんの
考え、とその違いを表せないのだと思います。

言葉が失礼かどうかというのは、その部分だけ切り抜いてみるのでなく、
文脈で見ないといけないのだと思います。「下」という言葉の定義が、
シンプルで抽象的な意味であり、侮辱的な意味が全く含まれていない
ということが、分かっている場合、そこには何の問題もない、そこを
切り抜いて見て、ナギヒロさんの考える定義、使い方で見て、それを
失礼だと見ると言うことは、成り立たないのだと思います。

それができるなら、私はナギヒロさんの言葉を、私の考える定義で解釈して、
いくらでも失礼だとか何だとかと批判することができるのだと思います。
そんな馬鹿馬鹿しいことは無いのだと思います。その言葉を発した人、
文章を書いた人の、その人の考える定義で解釈して、判断すべきことなの
だと思います。(定義が不明確な場合は、やはり聞いた人、読む人の定義で
判断するのは仕方ないと思いますが、はっきりと明確になっている場合は、
その人の定義で判断すべきものなのだと思います。)

また車椅子の人に関する表現の問題は、話の本筋ではありません。
話の本筋はコミュ障の人についてであり、車椅子の人の話はそれを
分かりやすくするための例えの話でしかありません。
本筋でなく枝葉のところばかりで議論になっても、話が進まないので、
私はそこは固執するところではないと思いますが。
本筋の話をすると、コミュ障の人にとっての車椅子というものは、
ナギヒロさんもないと考えているということですね。
つまりコミュ障の人はどれだけ補助をくれと言ったとしても、
補助を受けることができないということですね。
ナギヒロさんの言いたいことの「精神的な問題を抱えた人には不利な
社会情勢がある 」について、その通りだと思いますが、
それに対して、ではコミュ障の人はどうしていけばいいか、
というところについて、私が私の考えを出したということですね。
それは、補助を受けるということはできないのだから、コミュ障も
普通の人も対等であるという意識で生きればいいのでは、ということです。
補助となると一方的ですが、対等であれば、それぞれ異なる者同士の
歩み寄りです。実際コミュニケーションというのは、歩み寄りで、
一方的な補助ではありません。普通の人はコミュ障の人の気持ちは
分からないし、コミュ障も普通の人の気持ちは分からないからです。
それを一方的な補助に貶めることはないということです。
もしそんな補助というものが可能であれば、車椅子のようにそれを
作ってしまえばいいのですが、そんなものはありません。
そうであれば、一方的な補助という考えでなく、対等な歩み寄りと
考えた方がいいのではないか、そちらの方がコミュ障側も堂々とできるし
いいのではないか、ということです。

こんにちわ、pinさん。

僕は平等を求めています。
それなのに、
「ナギヒロさんは足の不自由な人が下であることを認めた」
と勝手に決めつけるのをやめて欲しいという事です。
pinさんの意見ならpinさんの意見として述べて欲しいという事です。

pinさんの書いた文章を完全把握すれば「下」の意味も
分かるはず。
という事でしょうが、それはなかなか難しい事だと思います。
人はそれぞれ違う意見を持っているので、
pinさんの意見を100%理解する余裕のある人は少ないように
思います。

実際問題、
「あなたは、足の不自由な人が下であることを認めたんですね?」
と誰かに聞いてみて下さい。
その後、pinさんの持論を展開してもらえば良いですが、
どっちにしても相手の人は不機嫌になると思います。
実際に聞けますか?


 コミュ障の人は堂々とすれば良い。
という事ですが、具体的に職場でどう他者と接する
のでしょうか?


No title

>pinさんの書いた文章を完全把握すれば「下」の意味も
>分かるはず。
>という事でしょうが、それはなかなか難しい事だと思います。
それが分からなければそれは議論の礎なのでこれ以上議論することは
できません。打ち切らせて頂きます。

>どっちにしても相手の人は不機嫌になると思います。
>実際に聞けますか?
実際にナギヒロさんに聞いているじゃないですか?

ありがとうございました。

こんにちわ、pinさん。

実際に聞けるか?というのは、
ネット上ではなく現実にという意味です。

打ち切りの旨、了解しました。

色々と意見を頂きまして、
ありがとうございました。
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